8.私の修業
私、岡山へ行きましてしばらくしますと・・・、岡山の少し西の方に、福山です
から新幹線で二駅目の町です。福山から市会議員がやってきました。ま、偉そ うにお供の人を六〜七人連れて来たんです。私に「人間性測ってくれ」いうて来 たわけ。私はその頃は、人間性の測定やっておりました。測るものいや簡単な ものでね、ただこんなものプラーンとぶら下げるだけで人間性が分かるんです ね。こんなもの。これだけで分かるんです。これだけ。勝手に全部分かる。人間 性の全部が分かるんです。
で、こんなものも昭和四十七年の三月二十七日に、大阪大学の中ぷらぷら歩
いてたらこれを作れって。私作った。何するのか分からない。部屋に帰って入っ ていくと人間性が分かることがわかったわけ。ほいで大阪大学の人を全部測っ て。そうしますと、「あー、こういう人間はこんな振れる」という事が分かったわけ です。それが分かりますと神の世界から、『四〜五万人を測定せよ。人間のす べてが分かる』というんです。
それから毎日二十人、三十人と測っておりました。もう三十人も測るとフラフラ
になってしまうんです。それをずーっとやって、今から何年か前にふっと向こうの 世界から、『もう充分だから測る必要がない』。そいであとから、ずーっと今まで 測った人間を、人員勘定しますと、六万人測っておりました。まあ、こんな簡単 なもので人間の一生がすべて分かるんですね。もちろん自分のことも全部分か りますね。こういう人間性の測定、私がこれを六万人の方をお金全然貰わずに ずーっと測定した。これが私の修業だったんですね。
人間はねえ、平々凡々では何にも得られない。“修業とは”という神様のこと
ばがありました。『修業とは自分以外の人間に幸福を与えることである。水かぶ ったりお経あげんの、あんなもの何の修業でも何でもない』といわれ、『そんな 時間があるんだったら自分以外の人間に三分でも五分でもいいから幸福を与 えよ』という。
私はそれを、そんなことはその頃知らなかった。人間性測定を、それだけやっ
たわけですね。そしたらもうそれで充分だから、そんなことをしない、もっと重要 なことをやっていけという命令で、今はよっぽど重要なこと以外は測定しないん ですわね。だから若いとき、普通の人の何倍かのことを勉強して、そしてあと六 万人の人を無料で人間相談、身の上相談をして、そうしてると向こうの世界から どんどん〃〃いろんなものを教えてくれる ということになったわけですね。
9.人間は生まれ変わる・・・浜田マキ子氏、猪木夫妻との縁
それからこの二ページ、二枚目はこれですね。これを簡単に説明しますと、こ
れは・・・、これもですね・・・、これは人間が一回きりじゃないということを示すた めにこれがあります。皆さんもご存じのこの、ねえ、一昨々年に、から有名にな ったこの女の人ですね。このかたが自分のうちで、自分の家、古い本がたくさん あるんで、その古い本の整理をしてた。ページがパッとめくれた時に、ちょうど政 木のことが書いてあった。さあ、それを読みだしたら、もう整理なんかほったら かしてそれを読んだ。ほいで、電話が掛かってきまして、「一度会って欲しい」と いうて掛かった。
ちょうどあくる日、東京へ行く予定があった。東京でお会いした。そしたら、会う
た瞬間に、「あなたに会うことを二十何年か前からずーっと待っておったんです」 と言う。そういうことで、その時私が発行しておりました、この“精神エネルギー” という本ですね。 この精神エネルギーの本をですね、マキ子さんにあげたわ け。浜田マキ子さん。そうしたらあくる日電話が掛かってきまして、「七十七ペー ジに私の家のことが書いてある」「足が震う程びっくりしました」。
私、実は強情偏屈。昭和十八年にね、総理大臣に文句を言うて行く。今から
三百五十年前も同じことをやっておりまして、建白書というものを政府に提出し て、そして、そのね、あとは松平のお殿様の家に一生預ける身になったわけで すね。そのことが書いてあります。七十七ページに。そして、その松平のお殿様 は、私と仲良くなったために、松平という性は嫌になったというて、藤井姓に変 えたと書いてある。浜田マキ子さんの実家、松平から藤井になった家。「これ私 の実家なんです」と言う。私は三百八十年前マキコさんの家でお世話になって たわけですよ。
そして、そのページ、1ページ次めくると、私ら夫婦の碑があるんです。その写
真があります。ここでだってですね、この私ら夫婦の石碑だってそう。私が岡山 へ行きまして、そういう不思議なことが分かりだした。そしたら私のところへ十一 番目の息子が、三百八十年前のですよ、息子がやってきたんです。私が、「あ なたは私の三百八十年前の息子です」と言うた。その息子が自分のお父さん お母さんの所へそのことを手紙で報せたわけですね。そうして報すと・・・、お父 さんお母さんが自分の家の付近をぶらぶら散歩してたらですね、私ら夫婦の石 碑の写真。これなんですけどね。八十九ページ。私ら夫婦の石碑の写真がある んです。
この夫婦の石碑の写真の、「このお隣にマキコさんの家あるんです」と言うて
びっくりしたわけ。それから、その、ちょうどこの写真を送ってきてくれた日にアン トニオ猪木がやって来たわけですね。その話をした。そしたら猪木、これを見る なり、「この石碑のすぐ横に私の家があるんです」と言うて。それもびっくりした わけ。だからアントニオ猪木、私の所へ月に一回来ますけど、そういう縁によっ て来る。
浜田マキ子さんもそのときですね、「あなた、立候補しなさい」「今度あなたの
ご主人は絶対に衆議院ね、もう落ちますからそのために・・」「マキコさんが立候 補することによってご主人はかならず通りますよ。だから夫のために立候補しな さい。自分は通る必要はないんですよ」と。それでマキコさんは立候補したとい う。それは、ご主人は知らんもんやから、こう、ガーッと、まあ問題があったわけ なんですけど。そのとおりで、マキコさんは通らなかった。ご主人はそのために 通ったわけですね。
その時に、「マキコさんは・・・、あなたは第一回目は通らんでいい、そし今度
の選挙、第二回目は必ず通る。あなたは新党作りなさい。そして、その第三回 目と、そいでもう後一回の選挙であなたは第一党になるから、あなたは日本で はじめての女の総理大臣になることになってるから、そのつもりでやんなさい」 と言うた。マキコさん、そのつもりでやるために、「自分がずっと日本におっては 日本のことが分からないから、まず アメリカへ行って、ほいで日本のことを勉 強する」「方々へ行って日本のことを勉強する」と言うてアメリカへ行きました ね。
ほいで、ちょうどアメリカへ行って一ヵ年過ぎたときですね。去年の八月の終
わり。「もう一年アメリカに居たい」と言うて電話が掛かりました。「では、あなた は六ヵ月間アメリカにおりなさい。そして六ヵ月後にフランスへ行きなさい。向こ うへ行くことによってね、あなたと同じ女の、今フランスはね、総理やから、あな たが行けば仲良くできますよ」「もしもあの人と仲良くすることによって、日本の ためにとってもいい事が起こるから」と言うて電話した。マキコさん、でも、フラン スに行くにしても、何にもフランスには、全然知り合いも何にもないというから、 「あー、困りましたねー」と言うてた。
そうしたら、一週間しますと電話が掛かりまして、「フランスから招聘状が来ま
した。これでフランスへ行けます」。あと一週間か二週間しますと・・・、今日本へ 戻ってきましたので、この月の二十何日かに向こうへ行くことになっております。 ほいで、フランスで、フランスの今の女の総理大臣と仲良くなって、ほいで日本 へ帰ってきます。ほいでこの人は、これから世界中いろんな所へ行ってきます。 だから、この人は総理になりますと・・・、今の、現在の日本の政治家というのは もう、なってませんからね、これがなりますと、円満なすばらしい日本の政治が できると思います。
10.オルガン・ピアノが勝手に弾ける
それから、その次の第三枚目。これはこういうことでね。私は、実はこれ、まず
最初のあることばね、”為せばなる・・・”という。私これは、子供の時これが大好 き。小学校の時これが大好きだった。ところが岡山へ行きまして、私自身の今 から一世前の名前が分かったわけ。そしたらある人がこれ持ってきてくれまし て、「あなたが三百八十年前の、あれが見つかりましたよ」と言うて、これ持って きた。
このことば、私が子供の時から大好きだった。これは自分が三百八十年前に
ね、これ、やったことばがあったわけです。こういうことからですね、ちょうど一昨 年です・・・。私は、先ほど言いました子供の時、小学校一年・二年から腹式深 呼吸やっておりました。その腹式深呼吸をやってるうちに、ある日、急にです ね・・・。私の家にはピアノ、オルガンなんにもない、山奥です。ところがその私 にですね、小学校へ行って勝手に手が動いて、演奏ができたわけね。
初めオルガン弾いた、今度はピアノを弾いた。私が今から三百八十年前に演
奏した曲を、ふっと浮かんできたわけ。その曲を勝手に演奏した。私、ピアノも オルガンも稽古したことない。勝手に演奏できたわけ。そんなことが小学校三 年生の時にあったんです。それを、一昨年ふっと思い出しまして、「そうそう、私 が死んでしまえばこの曲がなくなる」と言って。ほいで、一昨年ですね、それをで すね楽譜に写した。自分で書いたわけです。
そうしますと、ちょうどそこへ、そういうことの専門家の人が入ってきまして、私
の楽譜を見るなりね、「これ、どうしたんですか」と言うわけですよ。私は音楽関 係ない。ところがその曲は、もうキチーッと正式な、正式に作曲してあったそうで す。私はそんなん勉強したこともなんにもない。でも、勝手に作曲ができたわけ ですね。
それを・・・。去年の八月二十七日にある音楽家が来て、「これをひとつ、いっ
ぺん演奏会やりましょう」ということになったわけですね。そして、その演奏会を やった。私は、まさか自分が弾くとは思わなかった。それ、専門家がみな、私の 曲演奏してくれるわけです。ところがですね。いよいよその音楽会が始まります と、司会者が私を上へあがった。舞台へあがった。そしたら、その司会者がで すね、「政木先生は、このように音楽もなんにも知らない、勝手にこんな作曲が できました。ほいで、なんかお聞きしたらですね、オルガン・ピアノが勝手に弾け るそうです。ちょっと実験をやって下さい」と言うて。
実験をやったときに弾いたすばらしい演奏は、私は知らない。私がピアノの前
に座りますと・・・。普通鍵盤大きい、その鍵盤が小さくなったことを私が意識し ている。小さくなってしまった。勝手に演奏始まった。私はなんにも分からない。 後、その日の晩に帰りますと、私の息子が私のピアノの演奏やってるのを、あ れ撮ってくれたわけね。ビデオで。 見ますと、手が頭の上高くあがってる。そこ から弾いてる。すごい演奏。「全員が泣きました」と言うてました。私が弾いた後 も、「あとから弾いた一流の演奏家のピアノが、あとの音楽が、頼んなくて仕方 がなかった」というように言うてました。
ほいで、私がピアノを弾いて、演台から降りますと中村和尚の奥様が来てらし
て、「そばへ来い」言うたら顔が涙いっぱいだったですね。ほいで、その人に、 「今の音楽・・・」、ね、和尚の奥さんが、「今の音楽はどうしたんですか」言うた ら、私は、「何も知らない。ただピアノの前に座りますとドイツ人の音楽家の霊が 後へやってきたことは知っております。それが勝手に弾いたんでしょ」と言うて ました。「そうよ、あの演奏は日本人の演奏じゃないですよ」 とおっしゃってまし たね。
そしてその時だったんです。向こうの方から、テーブルから、「政木先生、来て
くださーい!」「観音様が発生しました」ということが。私がピアノを弾いておりま すと、13番テーブルに観音様が発生やっとったわけですね。そういうありえな い事が、去年八月二十七日も起こったわけです。この音楽はですね。あとか ら、時間があったら、テープレコーダちょっとあり ますから、お聞かせしますけ ど。まあ、こういうこと。
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